◎楽と苦。楽をせずに苦をとる。それは、苦にご神意のあることを感じたら地の信心ができてくる。そこから有り難いものになってくる。楽なものには有り難いものはない。楽と有り難いものがあるだけ。苦はその過程である。%V
%1久富繁雄さんの嫌いな茶碗。
%2ご結界に座ること


昭和四十三年二月十五日 朝の御理解


 いよいよ分からして頂く事は楽な方を取ろうと思えば楽が与えられず。楽でない方を頂こうとするところにおかげがあり。その為に精進が必要でございます。楽な方を取ろうという根性では信心は出来ません。もうこれでは一生うだつの上がらん信心で終わってしまう。ですからね、楽をしょう楽をしょう。楽になりたい楽になりたいというて信心したんでは、いつまでも楽は許されません。というてその、まあ苦しい方苦しい方と取っていけばと、苦しい中に楽があるという訳でもないのですけれども。この有難いものに、結局そのまあ楽と苦があるならば、苦の方を取ればまあ良い訳ですけれども。そこにまあ有難い方を取る、取らせて頂ける道を覚える。

 %1昨夜、ここの御用を終わらせて頂いてから、下がらして貰いましてから、久富先生と繁雄さんと家内と四人でお茶を頂きながら話たんですけれども。昨夜は家内がお茶を入れてくれました。そしてお茶を頂きながら繁雄さんが言われる事なんですよ、コタツの間で。大体あそこには十通りぐらい色々な窯もとの茶碗が色々用意してございます。萩もあれば唐津もある、そこら辺りの民芸窯のもあるといった様にひとつひとつが違う訳です。なかなかおもしろい茶碗が揃うておりますが、それでその茶を頂くですね、あちらへ行きますと。

 %1それで繁雄さんが言われるのに、その自分でお茶をする時には一番好きなのから、自分の好きなのにお茶を頂く訳なんですけども。これは人に入れて貰う時に、これは決まった様にあの必ずこの茶碗にそのお茶を入れて下さる、誰がお茶をしても。これはもう不思議なぐらいですと言うて、熊本の小代焼の、私は好きだったんですけども、繁雄さんは一番嫌いだったと言われるんですね。

 %1その沢山そのある中に一番嫌いだった。一番嫌いだったと思うそれに必ずというて良いぐらいにお茶を入れて下さる。今晩もそうですけれどもと言うて話しておられましたですね。そこでこういう中にもやはり御神意があるという事を思わして貰って、はじめの間はどうもこう好かんのに注いで貰ったと思いよったけれど。あまり度々になると気づいたんですね。本当に嫌いなものというものがあっちゃあならないと言うことに気づいた。

 %1そこで嫌いと思っておるこの茶碗が好きになる、やはり精進が必要だと言うこと。これは確かにそうですよね。お互い人間関係でもそうです。やはり自分の好みにぴったりあった人、自分の性分に合うた人もおりゃあ、それと反対の人もある。そりゃ虫が好かんという人があるですね。顔を見るとも嫌というのがある。ね。

 %1けどもそれがあったんでは、もうその嫌いな人の前におる時には、もう私は幸せでないのです。嫌な感じがしなければならん。道を歩いておっても嫌いな人が来たら、あっと回れ右しなければならない様な事になる。結局、私の周囲には嫌いなものはない。嫌いな人はないという精進が必要だという事になる。ですからそういう精進がなされなければなりません。

 %1いわゆる大地の信心です。ね。大地の信心がいよいよなされなければならないという事です。どういう嫌なものを持って来られても、それを自分の肥料に出来る。肥やしに出来れる信心が、結局望まれる訳なんですね。これは例えば、品物とか人だけじゃあないのですね。自分の嫌な事、嫌いな事があるんです。どげんでもそげな事があるのです。ですからそういう様なものがある間は、結局楽ではない事です。ね。

 %1ですから結局、その大地の様な信心がなされなければならないと言うことになります。嫌でたまらんという人があっても物があっても、それを自分の心の肥やしとする。ね。またそれを自分の心の力にする為のおかげを頂かして貰うという事になって来るのです。今私はお話をしながら、教典を開かして頂いたんですね。

 それでその今私が申しております、楽を求めたのではもう限りがない。楽から楽を求めて行っても決して楽はない。ね。そこで私共がここに二つあるならば楽でない方を取らして貰う。ね。それがです、信心さして頂きよると分かる様になる。楽から楽を求めて。だから信心しておっても、初めの間は楽になりたい楽になりたいというて信心をする。

 段々信心が分かって来るところに、これではいけない事が分かって修行を選ぶ楽しみが出来てくる訳なんです。ね。楽ではない方を取らして頂く事になって来る。ね。それは確かに楽ではないのだけれども。好きではないのだけれども。ね。それが私の心の根肥やしになって来る。

 私、今これを開かせて頂いたらね。Z『「天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」という、X第一節の今天地のというこの「地」という字をね、この中から大きく頂くんです。ですから御理解という事ではなくて、ははあ、ここに求められるのが大地の信心だなと私が思うた。ね。神様が求められるのは、やはり大地の信心を求めておられる私共に。

 それはどういう事かと言うと、私共がね、まあいうならば楽はせんぞという気にならして貰うところに、ね。楽はさせねばおかんという働きが始まるのです。ね。ここに楽と苦とあるならばです。楽でない方を取って行く様な信心をさして頂けば、ね。そこにそれが修行に生き生きとしてなって来るんです。それが根肥やしになって来るんです。ね。』

 繁雄さんの言われる、このお茶飲み茶碗が一番この中では嫌いだ。それがもう必ず、その嫌いなのが私の前にやって来るんです。ね。そこで初めの間はこの茶碗は嫌いだな嫌いだなと思うとったけれども。三遍も五遍も続いて来るとです。やっぱり気づかして頂いた。はあ嫌いなものがあっちゃあならんぞという神様の御神意だから、これをひとつ好きになれるおかげを頂かにゃあならんなあという事になって来る。ね。

 それが大地の信心になって来る。ね。そこから私が分からせられるものはどういうものかというとですね。楽の方の中には決して有難いというものはない。楽でない方には心が強うなったり心が豊かになったり、いよいよおかげの受け物が出来る。いわゆる根肥やし的なものがあるということ。ね。そこでどういう事になって来るかというとですね。もちっと苦労がして見たいという様な精進がなされて来るんです。

 %Vもちっと苦労がして見たいという事が精進の結果である。ね。その次にはどういう事かというとですね。もう楽なものと苦のものという事ではなくてですね。楽なものと有難いものという事になって来るんです。もう苦のものというものがない。そこからですね。楽なものを取らずに有難いものを取って行くという事になって来る。ここにはもう苦は無くなって来る。そこの過程としてです。あの楽を取らずに苦を取って行くという事になる。

 %V楽はしょうとは思いなさんな楽はさして頂くもんばいという事なんだ。ね。これはもうひとつ本当に体験さして貰う事によって、いよいよ有難うなって行くんですよね。自分でああしょうこうしょうという楽を求めた中に楽はない、本当は。何か寂しい何か後味の悪い、いやもっとこげな事じゃあいかんから、次の楽を求めようとするものだけしか生まれてこない。満足というものは与えられない。ね。

 ところが苦労を取らして貰う信心です。その精進からです。ね。どういう事になるかというと今言う。苦を取らして貰うその事がです。いわゆる大地の信心。嫌なものがある。その嫌なものが、それが根肥やしになる。心がいよいよ浄まったり豊かになったり、力が出来たり、ね。心が大きうなったりする訳なんです。ね。

 そこに私共がですね。いわば、もちっと苦労がして見たいという信心が生まれて来る。そうすっとそこのその次には、もう苦なものというものが無くなって、楽なものと有難いものとがある。どっちを取るか。やっぱり有難いものしか取るごとない様になって来るのです。

 もうひとつお互いの信心がね。ここんところをひとつ本当に体験さして貰い。ここんところの日々の生活の中に有難い方有難い方を取らして貰えれるおかげになってくる。初めから有難い方有難い方といったってですね。楽な方が有難いと思う様なふうな考えが起こって来るんですよね。ですから初めはそこんところを、楽を取らずに苦の方を取る。好きな方を取らずに嫌いな方を取るという生き方なんだ。

 そこに大地の信心がある。ね。その大地の信心の中からです。ね。大地が段々、いわゆる嫌いなもの嫌なもの、ね。難儀な問題なら難儀な問題がその大地をいよいよ肥やす事になる。そこにです、ね。私は天の恵みが限りなく頂ける様になるのです。ね。まずその大地の信心が出来なければ、いわゆる限りなく与えられる天の恵み、それこそ降る様にあると言われる天の恵みというものを、受け止めるのは大地の信心であるという事。ね。

 そこにいわゆる苦なものが無くなって、ね。好きなものばかり。悪い奴ばかりと思うておったのに、良い人の中に自分が住まわして貰うから極楽なんだ。ね。そこにいわば分からして頂くものはです。ね。さあ楽なものを取るか苦の方を取るかというのでなくて。楽な方を取るか有難いものを取るかという事になって来るんです。もうここに至ってまいりますとですね。本当に有難いものを頂かして貰う。有難い方を頂きましょうという事になって来る。ね。

 %2%Vそういう生き方。それをやはり体験さして貰う。ね。求められるのは結局体験の信心である。そこから有難いものを取らして頂けれる。ね。例えば私の、この御結界奉仕でもそうである。ね。初め例えば十何年前に、とても何時間も座わらんならんと言われたら、とても出来なかったんでしょうけれども。ね。やはりあるひとつの切っ掛けが出来て、そこから座りますという苦労の方を取る事になった。ね。

 %2%V立ちませんといういわば苦労の方を取る様にならして貰った。ね。その中に今度は立ちません事が苦しい事であった。座りますという事が大変苦しい事であったけれども。それは苦しい事でもなからなければ、ね。嫌な事でもない。今の私にとってはもう一番最高のここが有難い所になっておる様なものじゃあないかとこう思うのです。どっちを取られるか、はあ御結界に座るのが一番良いと言うことになって来る。これが有難い方を取らして貰う。ね。

 %2%Vそこからどういう事になって来るかというと、ね。限りなく恵まれる世界がそこから本当に開けて来るのです。ね。どうぞひとつ[天の恵それに地の利]とこうおっしゃる。ね。地の利というのはどういう事かと言うと、私は地の信心、ね。大地の持っておる利というのは天の恵を受け止めさして頂く地でなければならない。この地が例えばどんなに天の恵があっておっても、その地がコンクリートの様にがつがつしておったり、痩せた地であったんでは何にもならん。

 やっぱりその地が肥える。ね。地が豊かにならなければ、天の恵を恵として生かす事も受ける事も出来んのです。どうぞいよいよ天の恵を生かさして頂く為にも、私共の周囲からいよいよ嫌いなものを無くして行く修行を、本気でさして貰わなければならんと言うことですね。どうぞ。